ABOUT US
法人概要
照らす 育む 支え合う
オリンピアは全ての人に希望の光を届けます。
1950年、八代斌助・日本聖公会首座主教によって設立されたオリンピア幼稚園は1995年、阪神淡路大震災によって、45年の歴史に幕を下ろしました。
しかし、希望の光が消えることはありませんでした。
「神の栄光と子供らの希望の為」―オリンピア幼稚園の定礎に刻まれたこの思いを受け継ぎ、オリンピアは社会福祉法人光朔会として、奇跡の復活を遂げました。 子供から高齢者まで、すべての人が「自分らしく」輝くことのできる社会を実現したいー。 社会福祉法人光朔会は、「地の塩、世の光」としてこれからも人びとの希望のために歩んでいきます。
法人名
社会福祉法人光朔会
住所
神戸市中央区生田町 1-2-32
電話番号
078-221-7098
設立
1995年12月27日
役員
理事長 山口元
常務理事 山口宰
チャプレン 山口光
特別養護老人ホーム
介護が必要で、ご自宅で生活することが困難な方のための「第2の自宅」です。 小単位で家庭的な環境で、おひとりおひとりの心身の状態や個性、これまでの人生などを尊重し、きめ細かいケアを提供します。
認知症高齢者
グループホーム
認知症の高齢者が少人数の家庭的な雰囲気の中で暮らす場です。 日々の生活の中でおひとりおひとりが役割や責任を担うことによって、「いきがい」が生まれ、認知症の進行を遅らせたり、症状を安定させたりする効果も期待されています。
ショートステイ
認知症の高齢者が少人数の家庭的な雰囲気の中で暮らす場です。 日々の生活の中でおひとりおひとりが役割や責任を担うことによって、「いきがい」が生まれ、認知症の進行を遅らせたり、症状を安定させたりする効果も期待されています。
ホームヘルプ
介護が必要な方のお宅にヘルパーが伺い、おひとりおひとりが住み慣れた場所で、これまでどおりの生活を続けていただくためのお手伝いをするサービス。調理、洗濯、お買い物といった家事のお手伝いから、お風呂やお食事のお手伝いや外出の付き添いなど、サービスの内容はさまざまです。
小規模多機能型
居宅介護
介護や支援と必要とする高齢者が、通ったり、泊まったりすることができ、必要なときにはご自宅にスタッフが訪問をするサービス。住み慣れた地域で、顔なじみのスタッフから継続してケアを受けることができます。
サービス付き
高齢者向け住宅
いつまでも暮らしやすいバリアフリー構造のお部屋は、お風呂・トイレ付きのたっぷり25 m²。安心の24時間見守りサービスに加え、食事、家事、外出への同行など、各種サービス がご利用いただけます。
居宅介護支援事業所
ご自宅で介護を必要とされる方が、サービスを利用されるためのサポートをしています。 担当のケアマネジャーが、利用者のみなさま・ご家族のみなさまの声によく耳を傾け、おひとりおひとりにあったケアプランを作成いたします。
保育事業
保育園
こどもたちが、家庭的な雰囲気の中で、安心して生活ができるようにサポートを行う場です。日々の生活の中で、こどもたちが自分で主体的に選択、判断し、責任をもって遊ぶこ とができる環境を提供します。
障害福祉事業
障害者就労継続支援
自分たちの手でひとつひとつ創り上げていく「モノ作り」を通して、就労に向けてのステップアップをサポートします。「仕事のためのスキルを身につける」「生活のリズムを整える」など、それぞれの目標に向けて、自分たちのペースで活動することが可能です。
事業所
高齢者事業
グループホーム オリンピア灘(神戸市灘区)
高齢者総合福祉施設 オリンピア兵庫(神戸市兵庫区)
サービス付き高齢者向け住宅 オリンピア鶴甲(神戸市灘区)
グループホーム オリンピア篠原(神戸市灘区)
高齢者総合福祉施設 オリンピア神戸西(神戸市西区)
居宅介護支援事業所 オリンピア明石(明石市)
保育事業
オリンピア都こども園(神戸市灘区)
オリンピア神戸北保育園(神戸市北区)
神戸市立都児童館(神戸市灘区)
障害者事業
障害者就労支援センター オリンピア岩屋(神戸市灘区)
発達障害者サポートセンター オリンピア住吉(神戸市東灘区)
グループホーム オリンピア長峰(神戸市灘区)
障害者生活介護 オリンピア住吉東(神戸市東灘区)
特別養護老人ホーム
ショートステイ
デイサービス
居宅介護支援事業所(2000年4月1日)
新神戸あんしんすこやかセンター(2006年4月1日)
グループホームオリンピア灘 開設
認知症高齢者グループホーム
認知症対応型デイサービス
認知症高齢者グループホーム
ショートステイ
デイサービス
ホームヘルプ
居宅介護支援事業
Cafe Olympia
(2016年4月1日よりオリンピア都こども園)
小規模多機能型居宅介護
地域密着型特別養護老人ホーム
Cafe Olympia
就労継続支援B型
就労継続支援B型
サービス付き高齢者向け住宅
デイサービス
ホームヘルプ
Cafe Olympia
認知症高齢者グループホーム
共同生活援助
居宅介護支援事業
生活支援事業
就労継続支援B型
オリンピアの歴史と人々
八代斌助
八代斌助[やしろひんすけ] 日本聖公会首座主教 (1900-1970)
八代斌助師は、1900年(明治三十三年)三月、八代欽之允司祭の二男として、北海道の函館に生まれた。釧路中学をへて立教大学予科へ進学したが、中退。中国の山東省青島(チンタオ)へいったり、旭川歩兵連隊に入営して陸軍少尉に任官したりしたのちに聖職者になることをこころざし、 1920年(大正十年)日本聖公会神戸教区の伝道師補に任じられた。それ以後、1970年(昭和四十五年)十月十日午前八時四十五分、七十才でガン性腹膜炎のために永眠するまで半世紀にわたって牧会、宣教に従事されてきた。その間、1925年(大正十四年)に執事、27年(昭和二年)に司祭となり、ついでイギリスのケラム神学校に留学、姫路聖公会、須磨-聖ヨハネ教会勤務をへて聖ミカエル教会牧師となり、40年(昭和十五年)に神戸教区補佐主教となり、その後、神戸教区主教のほかに九州教区、朝鮮聖公会、大阪教区などの管理主教を歴任、47年(昭和二十二年)に日本聖公会主教会議長となり、死去するまで首座主教の地位にあった。 戦時中に、軍部や政府の圧力によってプロテスタント系各派とともに日本聖公会も日本基督教団への合同を強要されたさいに、八代師が種々の迫害をかくごで日本聖公会をまもりとおしたことは有名である。
戦後はいちはやく教会再一致をめざすいわゆるエキュメニカル運動の先鞭をつけ、1948年(昭和二十三年)には後に親友となる連合軍総司令官マッカーサー元帥の特別許可を得て、戦後初の公式の海外渡航の民間人としてロンドンで開催された全世界の聖公会の会議であるランベス会議に出席したのち、アムステルダムで開かれた世界教会会議(W・C・C)に出席したりした。 その後、日本キリスト教協議会(N・C・C)副議長、日本聖書協会副理事長を永年つとめ、さいきんでは万国博キリスト教館会長として活躍するなど、エキュメニカル運動のために貢献するところ大であった。
また戦後日本人として初めて渡航したさいには、イギリス国王ジョージ六世あての天皇のメッセージを伝達したし、有名なテニスのデヴィス・カップ争奪戦への日本の復帰や講和会議の下準備などにも尽力した。1949年(昭和二十四年)の戦後二度目の海外渡航のさいには、アメリカでワシントンの極東委員会のマコイ議長の依頼をうけて、帰途フイリッピンや香港の日本人戦犯を訪問したりしている。 さらに翌年には、当時まだ対日感情の好転していないオーストラリアやニュージーランドを訪問して、親善使節の役割を果たした。その後もたびたび外遊して、民間人としての立場から日本の国際的地歩の向上につとめるとともに、海外伝道のためにも貢献し、「日本の八代」としてよりもむしろ「世界のヤシロ」として知られた。 オックスフォード大学神学博士、トロント・トリニティーカレッジ神学博士、アメリカのコロンビア大学教理学博士、ゼネラル神学校神学博士などと多くの学位号をおくられたことが、このことをよく物語っているというべきであろう。もっとも、56年(昭和三十一年)に時の岸首相からイギリスの水爆実験中止を要請するための特使として渡英することを要請されたさいには、「宗教家は政治に指図されるべきでない」とことわり、代わりに当時立教大学総長の松下正寿氏を推薦したりしている。
1959年(昭和三十四年)に宣教百年記念大会が開催されたさいに、カンタベリー大主教フィッシャー博士、米国聖公会総裁主教リヒテンバーガー博士をはじめ、オーストラリアのハルス大主教、ブランドンのノリス主教、韓国のデーリー主教、ロスアンゼルスのブロイ主教、北インディアナのマレット主教、ハワイのケネディ主教など多数の海外代表が参加されたのも、八代師とそれらの人びとの友情および同師の活躍に負うところが大だというべきであろう。「空どぶ主教」とは、まさに同師にぴったりの形容詞であった。晩年の69年(昭和四十四年)正月にも沖縄、台湾訪問旅行をしているし、入院の直前までも飛行機や新幹線その他で東奔西走されていたことは、衆人のみとめるところである。
他方、八代師は教界においてはまったくの型破り的存在で、往年は酒豪としても知られ、世俗的な庶民性を身につけた、いわゆる「牧師」という通念からはほどとおい人物であった。酔えばよく「王将」や「今日は、赤ちゃん」「カチューシャ」などをうたったりしたものである。みずから町内会の夜警をひきうけたり、大工や左官をやったりする勤労奉仕マニヤでもあった。それに子どもが十一人あり、永眠当時で二十四人もの孫がある関係があってか、教育にははやくから異常なまでの情熱をいだき、学校のPTAで活躍したのをはじめ、聖公会系の多数の幼稚園、中学高校、大学などの理事長、理事、院長、園長などを兼ねていた。
教育関係の生前の主な肩書を列記すると、つぎのとおりである。聖公会神学院理事長、立教学院理事長、松蔭女子学院理事長・院長、桃山学院理事長・院長、八代学院理事長・院長、聖路加看護大学理事長、(聖路加病院理事長)国際キリスト教大学理事、聖ミカエル保育園理事長、オリンピア幼稚園長、聖ラファエル幼稚園理事長、鈴蘭台聖ミカエル幼稚園理事長・園長、境港聖心幼稚園長、神戸市教育委員、ボーイ・スカウト日本連盟相談役。
故人は文書伝道にもひじょうに積極的で、月刊の個人雑誌『ミカエルの友』を生前書きつづけてきたことは有名である。同誌は、故人の死後、遺言によって第183号をもって終刊した。他にみずから奇峰社を設立して、キリスト教関係の出版に従事、多くの図書を刊行した。主な著訳書はつぎのとおりである。『主イエス』『九十九の羊は』『聖書について』『聖書の話』『聖歌の話』『聖歌と人生』『戦後の世界を巡りて』『ああ濠洲よ』『ランベスあとさき』『現代に欠けるもの』『戦後十五年』『「今」を生きる』『病床に語る』『八代先生教話集』『八代斌助著作集』ネアン『旧約の話」『新約の話』バイク、ビテンジャー『教会の信仰』シェパード『教会の礼拝』コーガン『聖書の五人の作者』ほか多数。
なお、故人は宗教界・教育界における多年の功労によって、政府から1970年(昭和四十五年)十月十日付けで正四位・勲二等旭日重光章を贈られた。
山口光朔
山口光朔[やまぐちこうさく] 元神戸女学院大学学長 (1926-1993)
1949年京都大学文学部卒業。ミシガン大学・ワシントン大学大学院に留学、 桃山学院大学教授、カリフォルニア大学客員教授、ブリッジポート大学客員教授 などを歴任、その後、神戸女学院大学および同大学院教授、学生部長、文学部長、学長、院長代行を経て1992年3月定年退職、神戸女学院大学名誉教授、米国ロック フォード大学名誉博士、中国広州外国語学院顧問教授、インドネシア・フン・ハッタ 大学名誉教授、また、オリンピア幼稚園理事長・園長、アジア協会・アジア友の会 理事、神戸YMCA理事、世界人権宣言兵庫県実行委員会委員長、トインビー市民の会関西代表などと幅広く活躍。
著書には『異端の源流一中江兆民の思想と行動』『宮崎酒元論』『狂気のアメリカ』 『現代アメリカ論』『近代日本キリスト教の光と影』など、訳書にオールコック 『大君の都』、トインビー『戦争と文明』「人類と母なる大地』その他、多数。 偉大な歴史家アーノルド・トインビーの日本人唯一の弟子としても有名。
日本聖公会総裁主教故八代斌助師の娘婿。聖公会神戸聖ミカエル教会教会代表。
山口 元「山口光朔を偲ぶ」(神戸YMCA機関誌『神戸青年』1998年9月号)
今年も夏が過ぎていった。
8月20日は元神戸YMCA理事であった我が父、山口光朔の6回目の逝去記念日であった。父は1926年神戸YMCAの主事であった山口一郎の長男として生まれた。 御影教会で受洗。海軍兵学校在籍中に江田島から原爆投下された広島へ救援に行き被爆。 戦後すぐに、京都教会にうつり、親友酒井哲雄氏と出会う。 その夏教会のキャンプで妹、鼎が水死。青年会の責任者であった竹中正夫氏と光朔は遺体を挟んで無言で一夜を過ごしたという。 これが2人の初めての出会いであった。
京都大学大学院時代に豪僧といわれた八代斌助日本聖公会総裁主教の次女、洋子と結ばれる。 斌助主教の桃山学院大学設立を手伝い、米国、英国留学で生涯の師、歴史家アーノルド・トインビーと出会う。 八代斌助の死後神戸女学院大学に移り1993年66歳で昇天した。
光朔は若い頃酒もたばこも嗜まなかった。賀川豊彦を師と仰ぐ厳格な両親の元で育ったからだ。 その賀川豊彦と戦時中合同問題で対立し続けた大酒のみで、豪放磊落な八代斌助との出会いが彼の人生を一変させ、万人の知る光朔となった。 広島での被爆体験と弟と妹の死との出会いが彼を平和運動へと導き、トインビーとの出会いが歴史学者への道を拓いた。 酒井哲雄氏と今井鎮雄氏との出会いからYMCAの熱きレイマンとなった。
多くの出会いによってもたらされた波瀾万丈の人生こそ、神様のご計画だったのだろう。 今頃天国で一杯飲みながら「えらい世の中になってしもたな」とぼやいているだろうか。
日本聖公会
オリンピアが属する日本聖公会は、カンタベリー大主教を中心とするイギリス国教会を母体とし、そのネットワークは世界中に広がっています。松蔭女子学院、八代学院、桃山学院、立教学院、聖路加国際病院、エリザベス・サンダースホーム、滝乃川学園など、数多くの教育機関、医療機関、福祉施設が日本聖公会の一員として活動しています。
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